第4章 沈黙の教会


第1節 空っぽの礼拝堂

聖庁は沈黙していた。いや、正確には「静寂」を強いられていた。

かつては荘厳なパイプオルガンの音色と、何百もの賛美歌の声が満ちていたはずの大礼拝堂は、今や巨大な石造りの空洞と化していた。

ラッパの夜以来、誰も賛美歌を口にしなくなった。人々は、自らの声が、内側で鳴り続ける「響き」と衝突することを恐れた。声に出した「祈り」が、自らの「本心」と食い違うことを知ってしまったからだ。

信仰は、音を失い、形骸化していた。

司祭ルーベンは、その空っぽの礼拝堂を見下ろせる執務室で、唇を噛み締めていた。彼は、ラッパの音を「神の再臨」であり「最後の審判」であると、厳かに宣言した。混沌の始まりこそ、神の絶対的な秩序が示される瞬間だと信じていたからだ。この未曾有の事態を利用し、失われかけた神の秩序を取り戻そうとさえした。

だが、信徒たちは教会に戻らなかった。それどころか、彼らは教会を捨て、家庭を捨て、職場を捨て、ただ自らの内なる「響き」に導かれるまま、静かに離散していった。


第2節 鐘楼にて(回想)

三ヶ月前のクリスマスの夜。ルーベンは、大聖堂の鐘楼の頂で、群衆と共に「その時」を待っていた。

彼にとって、あの「ラッパの音」は、疑いようもなく神の御業だった。彼の耳には、それは『服従せよ』という峻厳な命令として響いた。長年待ち望んだ、神による「秩序の回復」のファンファーレだと。

彼は歓喜に打ち震え、即座に聖庁が運営する放送局を通じて、世界に宣言した。

「聞け、迷える子羊たちよ!主は再臨された!これは最後の審判の始まりである!」

だが、その放送はすぐに途絶えた。ラッパの音を「神の奇跡」として中継しようとした結果、その周波数に触れた技術者たちが、次々と「再構築の衝動」に目覚めてしまったのだ。

ある者は、幼い頃に死別した飼い犬の名を呼びながら放送室を去り、ある者は、モニターに映る「神の波形」を見て「これは偽りだ」と呟き、機材の電源を落とした。

聖庁の「声」は、皮肉にも自らが「奇跡」と呼んだ音によって、真っ先に沈黙させられた。


第3節 秩序の信奉者(回想)

ルーベンが神に生涯を捧げたのは、彼が「神」を愛していたからではなかった。彼が「秩序」を愛していたからだ。

彼は、半世紀前の内戦で荒廃した国に生まれた。理不尽な暴力、飢餓、そして「明日」が何の保証もない混沌。幼いルーベンが見たのは、法も道徳も失った人間が、いかに容易く獣に堕ちるかという地獄だった。

その瓦礫の街で、彼が唯一「変わらないもの」として見出したのが、爆撃にも耐えた古い教会の「十字架」だった。

彼にとって「神」とは、愛や赦しの対象ではない。人間という獣を律し、混沌から世界を守るための、絶対的な「規則」であり「システム」そのものだった。

彼が恐れるのは「罪」ではなく「無秩序」だった。だからこそ、ラッパの音を、神による「秩序の再構築」だと歓迎したのだ。


第4節 報告書

「なぜだ、主よ。なぜ選別された羊は、牧者の元へ戻らぬ」

ルーベンは鐘楼の頂で、空っぽになった広場を見下ろし、苛立ちを隠せずにいた。そこへ、聖庁に唯一残った、元軍属の調査官が息を切らして駆け上がってきた。

「司祭……緊急の報告です」

「信徒が戻ったか」

「いえ……それどころか、恐るべき事態です」

調査官が差し出したタブレット端末には、二つのファイルがあった。一つは、機能停止した各国の研究機関から、聖庁が独自にハッキングして得た「ラッパの音」に関する解析データ。

「……司祭、例の『音』の解析結果です。……それは、神の御業ではなく、極めて人間的な……『集合的無意識の暴走』である可能性が高い、と」

「……何だと?」

「ある異端の学説によれば、全人類の記憶が何らかの要因で連鎖的に共鳴した……ただの『社会現象』だというのです」

ルーベンはその報告書を握りつぶさんばかりに睨みつけた。神の天啓ではない?人間の、傲慢な意識が生み出した幻聴だと?ならば、自分が生涯を捧げたこの信仰は、この鐘楼は、この秩序は、一体何だったのか。

「そして……もう一つ」

調査官が、恐る恐る二つ目のファイルを開く。それは、都市中心部の監視カメラが機能停止する直前に捉えた、不鮮明な映像だった。

「『特異点』と呼ばれるノイズの発生源で、一人の子供が発見されました。二名の男女に保護された模様ですが……」

映像には、雪の中、まるで寒さも感じていないかのように座る、あのノアの姿が映っていた。

「この子供の周辺で、最も強く『再構築の衝動』──すなわち、既存の社会秩序を破壊する現象が観測されています。一部の離反者たちは……」

調査官は言い淀んだ。「……この子供こそが、新しい『メシア』として人々の変容を導いていると……そう、報告しています」


第5節 恐怖への反転

「認めぬ……」

ルーベンの喉から、乾いた声が漏れた。

「メシアだと?神の御業を、あのような小汚い子供と、人間の幻聴にすり替えるというのか」

彼の信仰は、その瞬間、明確な「恐怖」に反転した。

もし神がいないのなら。もしラッパの音が、人間の無意識の暴走だというのなら。人間を律するものは何もない。それは秩序の完全な崩壊であり、彼が最も憎んだあの内戦の瓦礫の街へ、世界が逆戻りすることを意味する。

そしてそれは、彼自身の存在意義の、完全な死だった。

あの子供は、神の秩序を回復する「メシア」などではない。秩序を破壊し、混沌を撒き散らす「異端」であり「悪魔」だ。

ルーベンは机の上の重い聖書を払い除け、インク壺を掴んだ。

「調査官!全聖庁の残存勢力に告ぐ!」

インクで黒く汚れた彼の手は、まるで、あの内戦の日に瓦礫と灰をかき分けた、幼い自分の手のように見えた。

「『異端』を発見した。神の秩序に仇なす『悪魔の子』と、それに与する者どもを、速やかに確保──いや」

彼は目を血走らせ、インクで汚れた手で、窓ガラスに映る自分の顔を睨みつけた。

「──『浄化』せよ、と」

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